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Last Update : 2004/02/29 |
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■ユーロビートが生まれるまで (DiscoサウンドからHi-NRGへの発展) 1960年代、アメリカでは黒人を中心とした、ソウルミュージックが席巻しました。 1970年代に入ると、DJがレコードを回し、お客さんが踊るという、「Disco」のスタイルがNYで人気になります。 そして1974年4月10日、あの「Billboard」誌に「Disco Chart(TOP40)」が出来ます。 「ミュンヘンサウンド」を中心としたダンスミュージックがアメリカで受けるようになると、 1980年代に入ってもヨーロッパではDiscoミュージックが世の中を席巻。 1984年2月4日付けのチャートから、「Boys Town Chart」は「Hi-NRG Chart」へと名称を変更。 |
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■That's Eurobeat絶頂期 (Hi-NRGからユーロビートへの分岐) さて、ここからがユーロビートの歴史の本編になりますね。 「That's Eurobeat」シリーズは、M.Farina(イタリア)の作品を中心に収録していったわけですが、 時を同じくして1986年10月、日本ではPony Canyonも新しいユーロビートコンピCDを制作し始めます。 しかし、前述のとおり、1987年に「Record Millor」誌の「Eurobeat Chart」が「Hi-NRG Chart」に戻されると、 それでは、VOL.44まで長く続いた「That's Eurobeat」シリーズに収録された、 さて、前述のFCFが「That's Eurobeat」シリーズへ本格的に曲提供をはじめると、 |
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■SUPER EUROBEATの誕生 (主流はMark FarinaからDave Rodgersへ) FCFが抜けた「TIME Records」においてその後「ユーロビート」制作の中心人物となったのは、 またこれと平行して、80年代中盤からHi-NRG制作にあたっていた、Gino CariaとSandro Olivaのコンビが、 その後の「TIME」を取り仕切ることとなったのが、FCFの裏で、実質的な制作活動をしていたL.Gelmettiです。 「FLEA」に移籍したPasquiniは、移籍とほぼ時を同じくして、「A-BEAT C」レーベルを設立。 |
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■SUPER EUROBEATの隆盛 (@社とSEBの執念) Pasquiniが抜けたあとの「FLEA」を支えたのは、Sergio Dall'Oraを中心とする「Havana Productions」でした。 さて、ほとんどの「FCF」レーベルの曲と、一部の「TIME」の曲を収録していた「That's Eurobeat」ですが、 その頃の「TIME」には、敏腕プロデューサーL.GelmettiとヴォーカリストのClara Moroniのコンビ、 クオリティの高い曲が多数排出されたのに対し、この頃の日本では、 テクノがブームになる前、イタロハウスがブームとなっていました。 さて、93年も終わりになると、ジュリアナからお立ち台が消え、テクノブームが落ち着きを見せます。 |
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■メジャー化と大ブーム (多レーベル時代への突入) しかし、この頃から、制作サイドでは少しずつ動きを見せるようになりました。 95年3月、@社は新シリーズ「EUROBEAT FLASH」を発売します。 この頃になると、制作陣のレーベル移動が活発化します。 しかし、この製作者大移動のあおりを一番受けたのが「TIME」でした。 「A-BEAT C」は、Pasquiniの強力なリーダーシップの元、 98年、「DELTA」からの大ヒット曲「NIGHT OF FIRE」により、「第3次パラパラブーム」が勃発。 そして2001年、一旦はレーベルを閉じた「VIBRATION」が、D.Di MarcantonioとL.Stangaによって復活。 |
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